玉井徳三郎

玉井徳三郎

明治35(1902)-昭和61(1986)

 日本画家。挿絵画家。広島県広島市に生まれる。大正14年(1925)、川端画学校で学ぶ。結城素明に師事。川端画学校を首席で卒業。「少年猿飛佐助」や川端康成「万葉姉妹」、檀一雄などの挿絵や絵本を描く。また川端康成、野間省一、山岡荘八、瀬戸内寂聴らの肖像画を描いたことで知られている。出版美術家連盟会員。

◇参考文献

美術年鑑社編 1988年


 玉井  徳三郎 

明治35(1902)-昭和61(1986)

 日本画家。挿絵画家。広島県広島市に生まれる。大正14年(1925)、川端画学校で学ぶ。結城素明に師事。川端画学校を首席で卒業。「少年猿飛佐助」や川端康成「万葉姉妹」、檀一雄などの挿絵や絵本を描く。また川端康成、野間省一、山岡荘八、瀬戸内寂聴らの肖像画を描いたことで知られている。出版美術家連盟会員。

◇参考文献

美術年鑑社編 1988年

速水御舟

「炎 舞」 速水御舟 作

速水御舟は、従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて象徴的・装飾的表現を極めた夭折の画家です。


【重要文化財(山種美術館公認作品)】 真作 原画

リトグラフ  

制作年度:1925年

サイズ:52 × 116 (cm)    ※限定350部の127番 

価格:非売品

❮ 速水 御舟 ❯

冷静に物事を捉え、観音のような眼を持つ優しい画家は、 イタリア政府よりオクイシェー・クーロンヌ勲章を受章 ドイツ政府より赤十字二等名誉勲章を受章しました。名作「炎舞」は速水御舟が 家族と共に軽井沢で過ごした1925年の夏、焚き火に群がる蛾の様子に この作品のアイディアを得て何度も焚き火をして、火を観察したり蛾を捕まえては 写生を繰り返していたようです。昭和の52年重要文化財に指定されたこの作品は、御舟の最高傑作と評されています。 原画は山種美術館所蔵です。

1894年(明治27年)8月2日、東京府東京市浅草区に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、『名樹散椿』(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝した。40歳没。


1894年 東京浅草に生まれる

1935年 没 享年40歳

松樹路人

❮ 松樹路人 ❯

(まつき ろじん、1927年1月16日[1] - 2017年12月19日)は、北海道出身の洋画家。本名は松樹路人(まつき みちと)。武蔵野美術大学名誉教授。

北海道留萌管内羽幌町に生まれた。小学校長であった父の転勤にともない、同網走管内留辺蘂町(現・北見市)・女満別町(現・大空町)で育つ。父の失職のため一家で東京に転居。戦中・戦後に東京美術学校で学ぶ。独立美術協会に所属。1971年から武蔵野美術大学で学生を指導。

初期作品群は「赤の時代」と称される。褐色を中心に抑制された色彩と肉厚の絵具の使い方が特徴。中学校教師、高校教師などを勤めたこともあったが絵は売れず、生活は困窮を極め赤ん坊に飲ませるミルクの回数を減すことさえあった。1964年初夏に過去と決別するために作品十数点を焼却したというエピソードをもつ。しかし、赤の時代を代表する「三人」「原野」「家族」(北海道立近代美術館蔵)などと、個展などを通じて売却された数点の作品は焼却を逃れた。そして長い沈黙のあと、1969年に「白の時代」へと突入した。銀座で見かけた藤田嗣治の作品に影響を受け、光沢のある乳白色を中心とした作風にがらりと変えた。1979年には十果会を結成し、1970年昭和会展昭和会賞、1980年安田火災東郷青児美術館大賞、1987年宮本三郎記念賞、1991年芸術選奨文部大臣賞を受賞。また、1971年から武蔵野美術大学の教授、同大学名誉教授、及び札幌武蔵野美術学院名誉学院長をつとめ、次世代を担う芸術家たちの育成を行った。

2017年12月19日、肺炎のため死去。


経歴

1927年 北海道羽幌町に生まれる。

1941年 東京に転居。東京府立第十五中学校(現・東京都立青山高等学校)に編入

1944年 東京美術学校入学、梅原龍三郎に学ぶ

1949年 東京美術学校(現・東京芸術大学)油絵科卒

1950年 独立展初入選

1960年 独立美術協会会員

1971年 武蔵野美術大学助教授、稲城市にアトリエを持つ

1973年 第16回安井賞展佳作賞

1977年 武蔵野美術大学教授

1981年 第4回東郷青児美術大賞

1986年 蓼科高原にアトリエを持つ

1987年 第5回宮本三郎記念賞

1991年 芸術選奨文部大臣賞

1996年 武蔵野美術大学退任

2005年 旭日小綬章叙勲

武蔵野美術大学名誉教授

独立美術協会会員

札幌武蔵野美術学院名誉学院長

※ Wikipedia 参照


片小田栄治

❮ 片小田栄治 ❯

1951年 東京に生まれる

1979年 東京芸術大学大学院卒業

1982年 新制作協会展作家賞受賞

1984年 明日への具象展出品

    日本国際美術展佳作賞受賞

1991年 浅井忠記念賞展優秀賞受賞

    現代日本美術展佳作賞受賞 

1992年 第1回小磯良平記念出品

    ABC&PI展優秀賞受賞

1994年 第37回安井賞展出品

1995年 44歳の若さで永眠



斎藤真一

「陽の野」斎藤真一 作

齊藤真一は、盲目の女旅芸人「瞽女」シリーズや映画「吉原炎上」(東映株式会社) の原作である「明治吉原細見記」等を描き、失われゆく日本文化をテーマに独自の世界観を創り出し、亡くなった後でも人気のある有名な画家です。


リトグラフ

制作年度:不明

サイズ:37×48cm

価格:要相談

❮ 斎藤 真一 ❯

(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、日本の洋画家、作家。

前半生

斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。油絵具を買ってもらうと猛烈に絵に興味を抱き、日曜日ごとに天城中学より更に2里離れた大原美術館に通ううち、グレコ、セガンチニ、コッテ に魅了される。教師から藤田嗣治の複製画を見せられて虜になり、上野の美校(東京美術学校)に憧れる。中学校卒業の年1940年(昭和15年) に岡山県立天城岡山師範二部に入学、美校進学を目指し、師範学校の2年間はデッサン室にこもり親友と受験デッサンに明け暮れ、師範学校の2年次に東京美術学校(現・東京芸術大学)師範科を受験して合格、1942年(昭和17年)東京へ移ると、まもなく徴兵に応召、海軍に3年従軍して学籍に戻った。

1948年(昭和23年)に卒業すると、静岡市立第一中学校に職を得る。この年、第4回日展に「鶏小屋」が初入選する。翌 1949年(昭和24年)、郷里の岡山県味野中学校に転任、萩野悦子と結婚すると退職し、ごく短い期間、神奈川県の鵠沼に住むが岡山に戻り、岡山県立天城高等学校の非常勤講師として1950年(昭和25年)から勤めている。翌年、長男・裕重が生まれ、光風会第38回展入選(「閑窓」)を経て1953年(昭和28年)に静岡県立伊東高等学校に着任すると創作に力を入れ、 1957年(昭和32年)、光風会第43回展に「立春の道」を出展し、プールヴ賞を受賞すると、次の年、パリに留学。渡航の費用は静岡や伊東、岡山で個展を開いたり、弟・彰男、妹・昌子など親族の援助を受けて捻出したものだった。横浜から船でマルセイユに渡り、イタリアまで原動機付自転車で40日かけて放浪の旅をしたという。アカデミー・グラン・ショーミエールで学び、藤田嗣治と親交を深める。

パリ留学は2年にわたり、1960年(昭和35年)に帰国、文藝春秋画廊(東京)にて帰国後初の個展を開く。帰国に際して藤田嗣治から「日本に帰ったら秋田や東北の良さを教えられ、自分の画風で描きなさい。」と勧められており、斎藤は次の夏に津軽を訪れるとねぶた祭に感動し、津軽三味線の音色に驚いたという。宿の古老から瞽女のことを教えられて心を惹かれ、年が明けると盲目の女性を描いている。初めて杉本キクエ瞽女を訪ねるのは1964年(昭和39年)で、翌年よりおよそ10年間、休暇のほとんどをさいて瞽女を取材するため越後に通うきっかけとなった。その間、「越後瞽女日記」展を文藝春秋画廊で開き(1970年(昭和45年)東京・羽黒洞主催)、1971年(昭和46年)には「星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)」で第14回安井賞佳作賞を受賞、18年間勤めた伊東高校を退職、1年間水上勉「松吟庵記」(月刊誌『小原流挿花』)の挿し絵を描いている。

ライフワークと執筆

越後に通っては書きためたものをまとめた著作は相次ぎ賞を受け、『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年)が1973年(昭和48年)に第21回日本エッセイストクラブ賞[1]、同年、『越後瞽女日記』(1972年)はADC賞(美術出版社)に選ばれている。以後、不幸な女たちを主たる題材として、画文集を多く刊行していく。また映画や演劇の仕事が入り、『津軽じょんがら節』[2]では挿入絵の制作と考証にあたり、劇団文化座の「越後瞽女日記」でも考証を担当した。瞽女から明治期の遊廓の女性へと題材は深まり、母の知り合いで同郷の倉敷出身の女性が花魁だったことから1985年には『明治吉原細見記』と『絵草子吉原炎上』を上梓している。これら2作は五社英雄監督の映画「吉原炎上」(東映株式会社)の原作となった。

水上勉(1971年)の新聞小説の挿画以降、瀬戸内寂聴「遠い風近い風」(1975年・朝日新聞)と、やはり水上の「長い橋」(1984年・日本経済新聞)を手がけ、和田芳恵著『道祖神幕』(1977年)の挿画と装丁を手がける一方で、神沢利子の詩集『いないいないの国』(1979年)や小川洋子著『シュガータイム』[3]に挿画を提供した。

斎藤真一は生涯に旅を重ねたことでも知られている。海外旅行はパリ留学に出発した1958年に始まり、1970年代はイタリアをシチリアからトスカーナまでめぐった1ヶ月の旅のほか、画商の見本市や個展などの機会を捉えてはほぼ毎年、ヨーロッパを訪れた。

褒章・受賞歴

1948年(昭和23年) - 第4回日展に初入選。「鶏小屋」

1951年(昭和26年) - 光風会第38回展入選。「閑窓」

1957年(昭和32年) - 光風会第43回展プールヴ賞。「立春の道」

1973年(昭和48年) - 第21回日本エッセイストクラブ賞『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年)、美術出版社ADC賞『越後瞽女日記』(1972年)

1982年(昭和48年) - 紺綬褒章受章

収蔵先

長年、画家を支えた仲野清次郎は山形県天童市に財団法人出羽桜美術館分館・斎藤真一心の美術館を開設した。

1970年(昭和45年) - 「越後瞽女日記」展(東京・文藝春秋画廊、羽黒洞主催)

1974年(昭和49年) - 「津軽じょんから―瞽女日記」展(東京・上野松坂屋、羽黒洞主催)。

1975年(昭和50年) - 「お春瞽女物語り」展(同上)。

1976年(昭和51年) - イタリアのシチリア、ウンブリア、トスカーナを1か月間旅行

1977年(昭和52年) - カルド・マディニオン画廊(パリ)にて個展。

スイス、バーゼルのクンストメッセ(国際画商見本市)に出品し、以後79年まで毎年出品。

3か月滞欧

1978年(昭和53年) - アキシオム画廊で開く個展(ドイツ・ゲルン)のため渡欧する。

1979年(昭和54年) - 「さすらい・斎藤真一」展(東京・池袋西武百貨店)。

スペインのラマンチャ、アンダルシアを旅行

1980年(昭和55年) - 「斎藤真一・さすらい画集原画」展(不忍画廊)。

イタリア、スイスを旅行

1981年(昭和56年) - カナダのヴィクトリア美術館(モントリオール)に作品が収蔵される。

1982年(昭和57年) - 「斎藤真一の世界」展(毎日新聞社主催、大阪・阪急ナビオ美術館ほか)。

「斎藤真一」展(船橋西武美術館)。「画廊コレクションによる斎藤真一」展(不忍画廊)。

スペイン、アンダルシア、トスカーナ、カタロニア、ランマシャを旅行

1985年(昭和60年) - 「斎藤真一・明治吉原細見記」展(毎日新聞紙社・西武美術館主催、東京・西武アートフォーラム)。

以後、阪急ナビオ美術館(毎日新聞主催)でも開催。

1986年(昭和61年) - 「浪漫の女たち〈水墨淡彩掛軸シリーズ〉」展(不忍画廊)。「明治吉原細見記」展(天満屋岡山店)。

「浪漫の女たち〈水墨淡彩掛軸シリーズ〉」展(不忍画廊)。

ポルトガルを旅行

1987年(昭和62年) - 「明治の吉原とその女たち―斎藤真一」展(日本橋高島屋)。

1989年 (昭和64年) - 「竹久夢二と斎藤真一展:大正ロマンと昭和ロマン」展(毎日新聞社主催、ナビオ美術館)

1990年(平成2年) - 第7回洋画常設特別陳列「斎藤真一」展(岡山県立美術館)

1991年(平成3年) - 「現代の孤独」(世田谷美術館蔵)が『昭和の美術』(第6巻)毎日新聞社)に選ばれる。

倉敷市立美術館にて「第4回郷土作家展 斎藤真一」。

1992年(平成4年) - 「哀愁の街角ポルトガルにて斎藤真一新作小品」展(不忍画廊)。

ポルトガルを旅行

1993年(平成5年) - フランス、山形県天童市に出羽桜美術館分館、斎藤真一心の美術館が開館。

「風のうたれ雨にぬれて…斎藤真一」展(斎藤真一心の美術館)。

ポルトガルを旅行

1994年(平成6年) - 9月18日 膵臓癌により死去。享年72歳。「斎藤真一遺作展I」(不忍画廊)

没後

1995年(平成7年) - 「斎藤真一の世界―想い出の伊東」展(伊東市・池田二十世紀美術館)。

「斎藤真一遺作展II」、「斎藤真一〈瞽女シリーズ〉遺作展III」(不忍画廊)。

1996年(平成8年) - 「斎藤真一〈女〉遺作展IV」(不忍画廊)。

1997年(平成9年) - 「斎藤真一が描く、高田瞽女 越後瞽女日記」展(上越市立総合博物館)。

「斎藤真一〈放浪〉展遺作展V」(不忍画廊)。

TIAF(東京インターナショナルアートフェスティバル)不忍画廊ブースにて「斎藤真一秀作」展。

劇団文化座により、「越後瞽女日記・瞽女さ、きてくんない」が再上演される。

1998年(平成10年) - 「斎藤真一〈自画像と旅芸人〉遺作展VI」(不忍画廊)。

1999年(平成11年) - 「斎藤真一」展(東京ステーションギャラリー)。「斎藤真一〈赫〉遺作展VII」(不忍画廊)。

2000年(平成12年) - 「斎藤真一〈憂愁〉遺作展VIII」(不忍画廊)。

2001年(平成13年) - 「斎藤真一〈道〉遺作展VIIII」(不忍画廊)。

2002年(平成14年) - 「斎藤真一瞽女名作展〈GOZE〉 遺作展X」(不忍画廊)。

2003年(平成15年) - 「斎藤真一 初期名作展 遺作展XI」(不忍画廊)。

「出羽桜美術館コレクションによる斎藤真一名作」展(リアス・アーク美術館)。

個展「斎藤真一 さすらい展―なつかしき故里をもとめて」(岡山県立美術館)。

「越後の瞽女を描く 木下晋 斎藤真一」展(新津市美術館)。

2004年(平成16年) - 「斎藤真一グラフィックワークス 遺作展XII」(不忍画廊)、「瞽女の境涯を描く-斎藤真一」展(滑川市博物館)。

2005年(平成17年) - 「斎藤真一×野田雄一 師へ捧ぐGlass Works 遺作展XIII」展(不忍画廊)。

☆Wikipedia参照


高良眞木

❮ 高良眞木  ❯

1930年 東京で生まれる。父は高名な医学者。母は戦後衆議院議員。

1947年 東京女子大学入学。

1949年 渡米。インディアナ州のアーラム・カレッジに転入学。

    英文学、美術専攻。卒業時は優等生10人のうちに入る。

    帰国翌年パリ留学。妹の死去のため、1955年帰国。

1960年 浜田糸衛の長編童話等4冊の表紙・挿絵を描く。

1963年 中川一政の知遇を得、スケッチ旅行などに同行。

1971年 銀座・現代画廊で個展。洲之内徹との交流が始まる。

    この頃から、メディアにも多数出演、個展も多く開催する。

1987年 洲之内徹死去。

1989年 真鶴町立中川一政美術館の審議委員となる。

2002年 真鶴に”木の家”を開設、運営主体である真鶴共生舎の代表を務める


齊藤博之

❮ 齊藤博之 ❯

北海道 函館 生まれ

 1979年  第54回北海道美術協会 道展出品(〜'00年)

 1985年  第39回二紀会出品(東京都美術館)

        (〜'87,'90,'92,93,'99〜'01)

 1986年  北海道檜山郡厚部町清水に転居

 1988年  第63回道展 北海道美術協会賞受賞

 1989年  第32回安井賞展入選(東京・西武美術館)

 1990年  第65回道展 会友賞受賞

        個展(札幌・時計台ギャラリー〜'99)

 1991年  北海道美術協会会員

        北の具象作家展出品(札幌・時計台ギャラリー〜'94)

 1992年  道南在住新作家展出品(函館市民会館)

 1997年  個展(中国 四川成都・中央芸術沙竜)

 1998年  具象画の現在展出品(道立函館美術館)

 1999年  新収蔵品展出品(道立函館美術館)

        北海道美術協会退会

 2000年  二紀選抜展出品(銀座・東京銀座画廊)

        個展(京橋・いつき美術画廊〜'02,'04,'06, '08,'12)

        『朽ちる時間 死/記憶/時間』出品(道立函館美術館)

        北海道余市郡余市町に転居

 2001年  個展(仙台・三越'03,'14)

 2002年  第4回北の大地ビエンナーレ展 北海道知事賞受賞

        個展(札幌・三越'03'16)

 2003年  四川省と北海道を結ぶ10人展出品(札幌・大同ギャラリー)

 2004年  第23回損保ジャパン美術財団奨励選抜展出品

 2005年  個展(池袋・三越'06)

 2006年  個展(川越・まるひろ'06〜'11)

        個展(札幌・丸井今井)

 2009年  アートフェア東京2009出品

 2010年  アートフェア東京2010出品

 2016年  個展(函館・丸井今井)

        個展(ながの・東急)

 

         * 現在無所属 *       


TAZUKO多鶴子

❮ TAZUKO多鶴子 

経歴

 岡山県出身

 1998年 瀬戸大橋博覧会 壁画制作

 2003年 『祈りのゆくえ』出版

 2005年 東京インターFM 出演

 2007年 消渇神社「一豊姫」奉納の儀と講演

 ※メディアに多数出演及び掲載

アートフェア

 2007年 CATANIA ARTE FIERA

 2007年 ART INTERNATIONAL ZURICH

 2011年 ART INTERNATIONAL ZURICH

 2012年 BERLINER LISTE

 2013年 Affordable Art Fair Seattle

 2014年 ART INTERNATIONAL ZURICH

 2015年 ART INTERNATIONAL ZURICH 

 現在まで出品

 ※海外で作品数点売却

個展

 2001年 台湾台北 初個展 『漢光書廊』海外個展

 2003年 岡山 『出版記念・紀伊國屋クレド』個展

       イタリア ミラノ 『アルテ・ジャポーネ』海外個展

 2004年 東京 銀座 『ギャラリーユニグラバス銀座館』個展

       鳥取 『ギャラリーそら』個展

       岡山 『第1回 紀伊國屋クレド』個展

       岡山 『優遊』個展及び企画展

 2005年 岡山 『第2回紀伊國屋クレド』個展

       岡山 『第3回紀伊國屋クレド』個展

       岡山 『第4回紀伊國屋クレド』個展

 2006年 広島 『第1回紀伊國屋』個展

       広島 『第2回紀伊國屋』個展

       岡山 『第5回紀伊國屋クレド』個展

       高松 『第1回紀伊國屋』個展

       岡山 『第6回紀伊國屋クレド』個展

 2007年 高松 『第2回紀伊國屋』個展

       岡山 『第7回紀伊國屋クレド』個展

       加古川『第1回紀伊國屋』個展

       岡山倉敷 『倉敷中央画廊企画展』個展

       高松 『第3回紀伊國屋』個展

 2008年 加古川『第2回紀伊國屋』個展

       加古川『第3回紀伊國屋』個展

       奈良 『仏像写真ギャラリー飛鳥園』個展

 2009年 加古川『第4回紀伊國屋』個展

       東京 『ジャガー青山ショールーム』個展

       加古川『第5回紀伊國屋』個展 

       京都 『cafe&gallery「Lugol」』個展

 2010年 加古川『第6回紀伊國屋』個展

       兵庫 『kata kata』個展

       大阪 『ギャラリーうえまち』個展

 2011年 名古屋『ジュエリーアトリエn.s.j.s』個展

       京都 『平等院参道/ギャラリーほおづえ』個展

 2012年 岡山 『第8回紀伊國屋クレド』個展

 2013年 東京 『SMART SHIP GALLERY』個展

       熊本 『KKRホテル熊本』個展

       大阪 『ニューオーサカホテル心斎橋』個展

 2014年〜現在 スイス等海外アートフェア出品を中心に国内でも個展継続中

 ※国内でも作品売却多数、賞歴多数

*<元東京展会員>現在無所属

☆美術年鑑2020年現在号141,000円で掲載


石橋画廊

住所:岡山県岡山市北区一宮1205-1

TEL:086-284-3688

Email:tazukoartart@icloud.com

全国美術商連合会 会員

許可公安委員会 岡山県公安委員会
古物商許可番号 第721010024454号
小坂 多鶴子